エロスという言葉には色々な意味があります。この言葉は普通、アガペという言葉と比較されて、後者が精神的な愛を指すのに対し、一般に肉体的情熱、性的な愛を意味する場合が多いのです。

エロスについて

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エロスについて

ピンクバラエロスという言葉には色々な意味があります。この言葉は普通、アガペという言葉と比較されて、後者が精神的な愛を指すのに対し、一般に肉体的情熱、性的な愛を意味する場合が多いのです。
 そこでぼくも、エロスをこの肉体的な愛に限定して申し上げることにします。

 近頃は大変、少なくなりましたが、今でも皆さまの中には「肉体的な愛」という言葉を聞かれると思わず眉をひそめられる方がいらっしゃるかもしれません。
恋愛の感情のなかにもこうした肉体的な欲望をまじえることを大変、汚らわしいと考えになる人もいられるでしょう。

 早い話が、昨年のある月にぼくが自分の教えている、ある大学の女子学生たちに「愛の純粋さについて」という題のレポートを書いてもらったことがあります。

 その時、提出された答案のなかには、この肉体的な欲望ほど恋愛の美しさを汚すものはないと書いた女子学生が、案外、多かったのには驚いた憶えがあるのです。

肉体的な愛

 青年たちにとちがって、皆さまや若い女子学生たちが本能的に肉欲を拒まれる傾向の強いのは無理もありません。
 第一、皆さまは普通、青年たちほど、この嵐のように荒々しい感情や、暗い欲望に苦しむことはほとんどないからです。現在、恋愛をなさっていられる方たちには、あるいはこんな御経験があるかも知れない。

 貴方は結婚まで、もっと精神的な結びつきを考えているのに、彼はそれだけでは満足できず、貴方の肉体をほしがる場合が多い。

 そうした経験から時として貴方は彼の愛情を疑われる場合もあるでしょう。
 だが、そういう時は、次のことだけは覚えていらっしゃい。
 貴方が肉体の欲望をそれほど感じないのは、貴方がまだ、若い女性だからです。けれども青年は生理的にこの官能に早く目覚めさせられ、それに苦しんでいるのです。

 勿論、こういう時、彼の欲望の言いなりになることは決してお奨めできません。貴方は御自分の立場、御自分の利点から彼をただちに裁いてはいけないのです。

 遅かれ早かれ、貴方もまた精神的な愛だけでなく、肉体的な愛の問題にぶつからねばならぬでしょう。

 今日、貴方はたちがその問題に格別、関心がないとしても、明日にはやはり心の準備を持つべきなのです。
 そういう意味でもぼくは今日から、皆さまとこのエロスの世界を歩いてみたいと思います。

 ぼくは今、この原稿を信濃のある高原で書いています。金色に笹ぶちどられた雲の割れ目から八ケ岳の紫色の峰が見え、鈴をつけた白い牛がゆっくりと牧草をはこんでいます。

 こういう高原にいますと、何となくむつかしい本よりは、牧歌的な可愛い物語が読みたくなるので、昨日も一日、クウリエというフフランス人の訳した『ダフニスとクロエ』を読んでいました。

『ダフニスとクロエ』は、皆さまの中にはあるいはお読みになった方もあるかも知れませんがねが、一人の牧童と羊飼いの娘との恋愛を美しいギリシャの自然を背景に物語ったお話で、ロンギュスというギリシャ人が紀元三、四世紀ごろ書いた作品と言われています。

 フランスでは今申しあげたクウリエという人の翻訳がもっとも正確で原文の味を出しているのだそうです。
 まあ、そういうむつかしいお話はやめにして、この物語の簡単なすじ書きを一部分だけでも御紹介してみましょう。

 それはそのむかし、ギリシャのレスポス島の美しい運河にかこまれたミティレーヌ町でのお話です。
 この土地にラモンという山羊(ヤギ)飼いが住んでいました。
 ある日のこと、彼は常春藤(きずた)に覆われたヤブ林の中に一匹の雌山羊から乳を飲んでいる可愛い男の子の捨子を発見したのです。それはいかにも捨子らしからぬ立派な産着を着た子供で、金のホックをつけた緋(あか)色のマントを纏(まと)っていました。
 そしてその傍(かたわ)らには象牙の柄の短刀が置いてあったのです。

 ラモンはこの捨て子拾って家に連れ帰り、ダフニスと名前付けて育てることにしました。
 それから二年ほど経って、この附近に住むドリアスという別の羊飼いがやはり同じように、ある洞穴の中に捨てられた女の子を見つけました。
 彼女の傍らにはやはり金で編んだ帽子や金で塗られた木靴や靴下がおかれてありました。ドリアスはこの赤児をクロエと命名して自分の家に引き取る決心をしました。

 ダフニスとクロエはこのようにそれぞれの義親のもとで成長していきました。同じような運命と境遇とのためか、幼い時から二人はすぐ仲よしになり、一緒に羊たちの番をするようになったわけです。

 自然の中に育ち、自然のままに成長したこの二人はいわゆる、われわれが恋と名づけるものをだれからも教えられませんでした。けれども本能的に彼等はおたがいの肉体の持つ美しさに気づきはじめたのです。

 ある日、羊を追っているうちに穴に落ちて泥まみれになったダフニスは、着物をクロエに渡して泉の中で体を洗いました。

 水浴をしている青年の体が陽の光にキラキラと光っている。その髪は黒檀のように黒い。それを見てクロエは美しいと思いました。もし彼が見ていなかったら、その肌に手を触れたいほどだったのです。

 この日からクロエの気持ちはなぜか動きはじめました。もう一度、水浴びをしている彼を見たい。そんな衝動にかられるのです。
 この時のクロエの心を原文は次のように説明しています。

「田舎で養い育てられた彼女には自分の心に生じた感情が何というか、その名がわからなかった。彼女の生活にあっては、恋という名は聞いたことがなかったからだ。一日中、食事もろくに取らずに過ごすこともあり、一睡もせずに一夜を明かすこともあった。一再ならず彼女はこのような夢想に落入り、次のように一人で独り言を言ったりするのだった。

(本当にダフニスはきれいだわ。
 あの人の頬はあかくて花のようだわ。あの人が唄う時、それは鳥のようだわ。ああ、なぜ、あたしは笛ではないのだろう。笛ならばあの人の唇にふれることができるのに、なぜ、あたしはあの人の仔山羊ではないのでしょう。
 そうすれば、あの人はわたしを腕に抱いてくれるのに!)」

 このような心の悩みはクロエだけではありませんでした。ダフニスとて同じことだったわけでした。
 ある日、彼はドルコンという友だちとクロエの接吻を賭けて自分たち二人のうち、どちらが美しいかという青年らしい争論をしたことがありました。
その争論に勝った彼は、はじめて彼女の口づけを受けたのですが、その日から彼は毒で刺されたような心の痛みを感じはじめました。

 時には淋しくなり、時には溜息をついたり、身ぶるいしたり、クロエの前にでると今まで覚えたことのない恥ずかしさや心の動揺を感じるのです。彼もまた、次のような独り言をつぶやくのです。

(神様。クロエの接吻はどのような働きをしたのでしょう。 あの娘の唇はバラよりも優しく、その口は蜜蝋よりも甘いのです。
私の胸はなぜか、ひどく動悸がし、脈が波うち、心も悩むのに、また接吻してもらいたいと願っているのです。そしてこの苦しみが何なのか、私にはわからないんです。)

 このように、ダフニスとクロエはおのおの、自分たちがなぜ悩むのか、心が苦しいのかが理解できない。自然児である二人は恋というものの存在を耳にしたことはなく、その名も知らないからでしょう。

 この小説の何よりの面白さは、こうした恋愛の存在を、ぼく等のように知らぬ素朴な彼等が次から次へと恋愛の心理の運びに悩まされ点にあるのです。不幸にしてその心理の運びやそれらをとりまくギリシャの自然の美しさは直接、訳文でも読んでいただくより仕方がありますまい。

 心で悩みながら彼等はそれをどう処理してよいかわからない。まして恋愛の技術や愛撫などはとても気がつかないのです。
 だが、ある日、彼等がいつものように山羊の番をしながら遊び戯れている時、大きな外套を纏い、木靴をはき、古びたパン袋を下げた一人の老人が現れて、アムールとよぶ愛の神の話をしてくれました。

「本当の心のくるしみをいやしてくるのは」と彼は申しました。「歌でも話でもなく、人を魅する力でも薬でもなく、ただ抱擁と接吻、裸で一緒に寝ることなのだよ」

 この言葉を聞いた二人は、自分たちの悩みをその話と照しあわせ、はじめて恋というものの存在を知りました。そして老人の言葉通り、野原で腕を組み合わせ、しっかり抱きあってみたのです。

 しかし最後の治療法、裸になって寝るということはさすがに出来かねました。このようなことは、ダフニスのような若い青年にとってもクロエのような娘にとっても、少し大胆すぎることだったのです。

「その癖、次の夜になって」と原文では書いています。「彼等は自分たちのしなかったことが悔やまれ、静かな夜を過ごすことができなかったのだった。

――わたしたちは接吻した。だが結果は何事もなかったのだ。わたしたちは抱擁した。何もわたし達を癒してはくれない。では一緒に寝るということが恋愛の唯一の治療法だというべきだろう。どうしてもそれを試みなければならない。それには確かに接吻などと違う何物かがあるに違いないから」

 けれども、二人はやっぱり、それをすることはできなかったのです。裸で寝るという仕方も知りませんでしたし、第一、なぜかわかりませんが、それを口に出すことが恥ずかしかったのです。

 このくらいでぼくたちは、この『ダフニスとクロエ』の小説の頁を閉じてみましょう。幸い、この美しい可愛い恋愛物語は邦訳も出ていますから、皆さまも一度はお読みになっても良いと思います。

 この後、二人には時には生命に関わるような事件が起きたり、時にはしばらくの間、別れ別れにならぬ運命を持ったりするのですが、やがては結婚するという結末にいたるのです。

 それは、ともあれ、先ほど申しましたように、この小説の妙味は自然児であるダフニスとクロエが次第に性に目覚め、その性についてさまざまなことを学びながら結び合うという点にあるのです。

皆さまもよく御存知のフランスの作家フローベルに『感情教育』という小説がありますが、もしその言葉をもじっていえば、この『ダフニスとクロエ』は性教育の小説とも言えましょう。

 だが、『ダフニスとクロエ』はぼくの簡単な紹介でもすぐにおわかりになるように、牧歌的な物語です。
 うつくしいギリシャの田園を背景とした可愛い小さなお話です。

 そこに描かれた二人の若い男女の恋は勿論、その性的な目覚めも決してぼくたちに淫猥な感情、汚らしさを感じさせません。たとえば、ぼくが紹介した最後の部分を思い出して下さい。

 毛皮を着た老人に二人は恋の苦しみを除くためには、シッカリと抱きあい、裸になって寝ろと奨められます。それを教える老人を、またその奨めを無邪気に肯いてきくダフニスとクロエの姿をちょっと心の中に想像してごらんなさい。

 少しも賤(いや)しい、みだらな印象は受けないではありませんか。まるで彼等は年寄りから羊の飼い方、葡萄(ぶどう)の植え方、病気の治し方を教えてもらう時の素直さで、性の知識を学んだのです。

 そこだけではありません。やがてダフニスはリセニオンという中年の女から、本当の性の技術まで教え込まれる場面があるのです。彼女は術策をもってダフニスを欺し、愛のてほどきと称して彼の童貞を奪うのです。
そのあとでダフニスとクロエに今、習ったことと同じことを為そうかと考えます。

「しかし、彼はやはり、接吻と抱擁以外のことをクロエに要求しようとはもう思わなかった。
 彼はクロエに叫び声をたたせることを望まなかったから。また、彼女の感情を害するような泣かせるような真似は到底できなかった。

 まして出血させるというようなことは、うぶな彼は血を怖れていたし、傷つけるわけでもないのに血が出るなどとは、あり得るべきことではないと考えられた」

 と原文では書いています。この場面だって、決して、ぼくたちの心に不快感を与えたり、汚らわしく思わせはしません。むしろ、そうしたダフニスの無邪気さが、ぼくたちの微笑みを誘うのです。

 なぜでしょう。それはダフニスやクロエが性というものに罪の意識も暗いうしろめたさも持たなかったからです。
 桃金嬢の花かげに拡がるギリシャの青空のようにあかるい、澄んだ眼でセックスというものを眺めたからです。

 ダフニスの裸体をみること、その水にぬれたキラ、キラと赫(かがや)く体を美しいと思うこと、それに触れてみたいと考えること、それはクロエにとって決して汚ない感情ではありませんでした。

 美しい花を知ればその匂いを嗅いでみたいと思う、あの衝動とほとんど変わりないのです。

 老人から教えられて成程と思えば、牧場のみどり色の草に互いに抱き合って寝ころび、接吻をかわすことも彼等は決して悪いことだとは思っていません。蜜?が花を慕うのと同じ自然な要求なのです。

 この小さな放歌的な物語が今日、ぼくたちに何か、遠い失われた夢のようなお話に感じられるのは、これがギリシャの昔話だからではありません。

 性というものがまだ暗い影もおびず、罪の臭いも漂わせず、実にのびのびと、あかるく、無邪気に考えられていた時代があったからです。

 その頃、性にはまだ苦しい歪んだ意味は与えられていませんでした。肉欲というものを、何か賤(いや)しい、穢(けが)らわしい、恋愛の純粋を傷つけるもののように思いはじめたのは、ずっと後のことです。

 おそらく、それは外国ではキリスト教が、東洋では仏教や儒教が人間の肉からこの無邪気さ、このあかるさを奪ってしまったためかもしれません。
 皆さまもよく御存知のように宗教というものにとっては、肉体というものは普通、人間の迷いの罠(わな)として考えられているからです。

 このことは次回にでもゆっくりと考えることにしますが、けれども、このあかるさを奪ったのは何も宗教だけのせいではない。
 あの頃には性や肉欲はそれほどの力、それほどの苦しみも人間には与えずに、キチンとした秩序を持っていたためです。

性の悩み

 ダフニスとクロエの性の悩みをみてごらんない。彼等が悩んだり、苦しんだりすることは、自分たちのどうにもならぬ感情が、一体何のためであるか、どこから来るかを知らなかったからです。

 ぼくは先ほどから、この小説を牧歌的な可愛い物語とたびたび申しましたが、それは同時に、彼等の考えていた性や肉欲が可愛い、無邪気なものだっためでもあります。

 けれども、その後になって人間の心や体験が更に成長するにつれ、人々はこのように性を無邪気なままにしておくことはできませんでした。

 彼等はダフニスやクロエよりももっと大きな大人になったからでしょう。子供にとって無邪気に見えるものも大人にとっては暗い悲しみや苦悩を与えるものが人生に多いように、セックスもまた牧歌の世界から悲劇の世界に移らねばならなくなったのであります。

 それが正しいことだったか、間違っていたかは今、考えないことにします。確かなことは性に対する気持のこの変化はわれわれにとって、やはり、やむをえなかったことだったという点にあるのです。

『ダフニスとクロエ』から今日、ぼくたちが御一緒に考えたいことはこの無邪気な性から暗い性の意識へのうつりかわりということです。
 つづく 肉欲について